歴史の空白を越えて再び世界の舞台へ ─ 1956年 第16回大会(メルボルン)─
戦後初の大会、第14回ロンドン・オリンピックには日本とドイツは参加を許されず、日独両国がFIFAに正式に復帰を認められたのは1950年のことであった。これで、国際試合も可能になったわけだが、1952年のヘルシンキ大会には視察員を派遣しただけでチームは参加しなかった。
1956年のメルボルン大会は、オリンピックが初めて欧米以外で開催された大会で、予選が行なわれたのもこの大会が初めてである。日本は第12組で、韓国との息詰まる予選2試合を制して本戦出場権を獲得した。
韓国からもぎとった貴重な1勝
場所は東京・後楽園競輪場。当時は、走路(バンク)の中の芝生をピッチとして使うことはよくあることだった。チームはこの1年で大幅に若返り、24歳以下の選手が大半であった。八重樫茂生(昭和33年卒/故人)もこのとき代表入りを果たしている。
第1戦は皇太子殿下(今の天皇陛下)をお迎えして行なわれた。劣勢を予想された日本であったが、2-0で快勝。これは韓国代表に対する初勝利という歴史的なものだった。
第2戦は1週間後、ところも同じ後楽園競輪場(日本の訪韓が難しく2戦とも日本で開催された)、第1戦のビハインドをもつ韓国が立ち上がりから鋭い出足を見せ0-2と勝利を収める。延長戦に入るが互いに譲らず0-0の引き分けで終わり、出場国決定は大会規定により抽選に委ねられることとなった。竹腰監督が当たりくじを引きあて、日本はベルリン以来20年ぶりとなるオリンピック出場を果たすのである。
意気込みに勝る開催国に敗戦
予選で参加国を絞った大会だったが、直前に強豪国が相次いで棄権し、11カ国で金メダルを争うことになった。チーム数が減ったこと、初戦の相手はサッカーがあまり盛んとはいえないオーストラリアだったことなどから、国内では上位進出を期待する声も多かった。しかし、フィジカルと意気込みに勝るオーストラリアに、終始支配された試合では、得意のショートパスをつなぐこともできず、接触プレーが多くなり、良いところをだしきれないまま日本チームの挑戦は幕を閉じた。
(敬称略)
メルボルン・オリンピックは、抽選による出場権獲得、本戦は1回戦敗退という不本意な結果ではあったが、若い選手たちがヨーロッパのトップクラスのサッカーに触れる格好の機会となった。ここから東京、メキシコへつながる強化の途が始まるのである。