もてる力を出しきって獲得した「銅メダル」 ─ 1968年 第19回大会(メキシコ) ─
世界中のサッカーファンの誰ひとりとして予想もしなかった、日本の銅メダル獲得。しかし、東京オリンピック以来、ほぼ同じ顔ぶれで戦ってきたチームは、完成の域に到達しつつあった。
事前のメキシコ遠征で海抜2,300mでの試合を体感し、長野で合宿するなど直前の高地対策に生かしたこと、恒例の欧州・ソ連遠征で強豪と対戦しながらコンビネーションを確立していったこと、また、組み合わせにも恵まれ、『ヨーロッパ遠征していた8月、予選の組み合わせを西独で知ったときから、チャンスは十分にあると思っていた』と釜本邦茂(昭和42年卒)は、ア式蹴球部50周年誌に書いている。
日本は、スペイン、ブラジル、ナイジェリアと同じB組に入った。初戦の相手はナイジェリア。試合の行なわれる10月14日は、4年前にアルゼンチンを破った日本サッカーにおいては縁起のよい日、目標である準々決勝進出のためには、絶対に落とせない一戦であるという意識はチームの誰もが強くもっていた。
釜本の鮮やかなハットトリックで快勝
プエプラ市のクアウテモク・スタジアム、陽射しはまだ強い午後3時半キックオフ。24分、日本に待望の先制ゴール。八重樫茂生(昭和33年卒/故人)のセンタリングを釜本が頭であわせ、ゴール右隅に決める。しかし、33分一瞬のスキをつかれ同点とされると、そのまま前半終了。後半に入り陽が陰るとともに日本チームの調子はどんどん上がっていく。中盤の八重樫、宮本輝紀が縦横に走り、左右のウィング杉山、松本育夫(昭和39年卒)は再三突破を試みる。そして73分、FKを八重樫が前方にフィード、走りこんだ杉山のセンタリングを釜本が右足で豪快に蹴りこみ2点目。さらに、終了間際の89分、釜本が意表をつく35mのロングシュートを突き刺しハットトリック達成、日本の全得点をたたきだす活躍で、ナイジェリアに3-1と快勝した。
勢いづく日本チームではあったが、ベテラン八重樫が負傷してしまい、その後の試合を欠場しなくてはならなくなった。
勝負強さが引きよせた勝ち点1
続く対戦は、グループBの中でも評価の高かったブラジル。開始9分、不運な先制を許す。初戦でスペインに敗れていたブラジルは、FW1人を残して全員が引いて守る。ゲームメーカーの八重樫を欠く日本は、形が作れないまま時間だけが過ぎていく。焦りの見え始めた残り10分、ベンチが動いた。ウィング松本に代え、ベテラン渡辺を投入。するとその2分後、釜本のヘディングの落としに反応した渡辺が、値千金のスライディングシュート。ベンチの采配がズバリとあたり、勝ちにも等しいドローを引きよせたのである。
「点を取らずに引き分け」大作戦
目標の準々決勝進出をほぼ決めて臨んだ第3戦、スペイン戦。既にA組の順位は確定しており、2位通過すれば開催国メキシコとの対戦は回避できる。一方のスペインも日本に負けて2位となることを望んでいたようで、「失点は絶対してはいけない、でも、勝ってもいけない」選手にとってもベンチにとっても、なんとも微妙な作戦が展開されたのである。
そんな中でもゴールチャンスは訪れる。森孝慈(昭和42年卒/故人)が、釜本が、杉山が、シュートを放つがことごとくバーやポストにはねられる。結局、思惑通りの0-0でタイムアップ。日本はグループ2位となり、フランスと準々決勝を戦うことになるのである。
ゆるぎない自信がもたらした完勝
準々決勝の相手はフランス。戦前の予想は、圧倒的にフランス有利。しかし、強豪国相手に無敗でグループリーグを勝ち上がってきた日本チームはゆるぎない自信をもっていた。先制点は25分、右サイド宮本征勝(昭和36年卒/故人)のパスを受けた釜本がドリブルでもち込み、強烈なシュート。しかし、30分に同点とされそのまま前半を終了する。後半に入っても日本チームの闘志は衰えない。守備の安定もあってリズムをつかむと、59分釜本の鮮やかなボレーで勝ち越す。勢いにのった日本は70分、FKからチャンスをつかみ、釜本の折り返しを渡辺が詰めて、勝利を決定づける3点目を上げる。
なれない正午のキックオフということで、選手には疲労がみられたが、内容的にも世界を驚かすに十分な完勝であった。
決定機を作るも得点には結びつかず
中2日で迎えた準決勝は、前回の東京オリンピック優勝国ハンガリーとの対戦となった。前半は、鎌田を中心とした守備陣が健闘、7分、19分とハンガリーゴールを脅かすが得点には至らず、逆に30分ハンガリーに得点を許してしまう。後半に入ると、地力に勝るハンガリーに次々とゴールを奪われ、終わってみれば0-5の大敗。格の違いを見せつけられた試合であった。ハンガリーはその後ブルガリアを破って、大会3度目の優勝を飾っている。
メダルと誇りをかけて戦った3位決定戦
10月24日、アステカスタジアムは地元メキシコの登場もあって、超満員にふくれあがっていた。日本チームは大敗のショックから気持ちを切り替え、メダル獲得に一丸となっていた。
試合は終始、地元の声援に後押しされたメキシコペース、日本は防戦一方であった。じっくり守ってカウンターを仕掛ける作戦ではあったが、こぼれ球をメキシコに拾われ、苦しい時間帯が続いた。しかし、17分日本の誇る黄金コンビ杉山-釜本のホットラインが貴重な先制点を上げる。さらに39分、再び杉山が釜本へグランダーのパスを送ると、釜本はペナルティエリアの外から強烈なミドルシュートを放つ。呆然と立ち尽くすGK、ボールはゴール左に突き刺さり、日本は2-0とリードして前半を折り返す。
後半開始早々、あろうことかメキシコにPKを与えてしまう。しかし、GK横山ががっちりと抑え、得点を許さない。
その後もメキシコの猛攻は続くが、2点のリードを守りきり、ついに悲願の、アジア勢初の銅メダルを獲得するのである。また、チームはこの大会から制定されたフェアプレー賞を受賞、通算7ゴールを上げた釜本邦茂は得点王に輝いた。アジア初の快挙を成し遂げた日本チーム、東京オリンピックに向けての準備から始まった8年にわたる強化の成果が、メキシコの地で大輪の花を咲かせたのである。
(敬称略)
《こぼれ話》
表彰式を終え選手村へ戻った選手たちは、精も根も尽き果てたかのようにベットに倒れこんだとのことです。『苦しくてウーウーと唸った』と、釜本さんが50周年誌に記しているように、大変な試合だったことは想像に難くありません。この銅メダルは、選手・監督・コーチ・スタッフが一丸となって勝ち取ったものなのです。
『試合が終わったら一刻も早く帰ろうと、閉会式も出ず、サッサと帰り支度をし』夕暮れのメキシコシティーを飛び立った日本チーム、その胸には大きな誇りとずっしりと重たい銅メダルが輝いていたのだろうと思います。
負傷後もキャプテンシーを発揮した八重樫茂生氏(昭和33年卒/故人)
初戦のナイジェリア戦でラフプレーを受けて、靭帯断裂の大怪我を負った八重樫さん、しかし、裏方に回りながらもチームを牽引し続けました。中1日の厳しいスケジュール、スタッフも潤沢にいない海外遠征で、松葉杖をつきながらも選手全員のユニフォームを洗濯してくださったというエピソードは、今でも語り継がれ「伝説のキャプテン」と称されています。
メキシコ・オリンピックでは3位という成績もさることながら、フェアプレー賞を獲得、クラマー氏に導かれた日本サッカーは一つの到達点を迎えた。しかし、苦楽を共にしたチームが熟成していくのとは裏腹に、世代交代が進まず、日本サッカーは20年以上、長く暗いトンネルの中をさまようことになるのである。