Jリーグ誕生の仕掛人
1968年メキシコ五輪での銅メダル獲得以降、日本代表は結果を残せず、長い低迷期に入る。また、JSL(※1)の人気不振が嘆かれ始めたことから、日本サッカーの活性化の動きが高まり、日本サッカープロ化の動きが本格的に始まった。
古河電気工業の社員として、選手・監督とサラリーマン、二足のわらじをはいて社会へと船出した川淵であったが、1988年5月2日古河電工から古河産業への出向の内示を受ける。サラリーマン人生に先が見え、自分の将来に焦りを感じていた頃、川淵のもとに、JSL総務主事にならないかという話が舞い込んできた。現役引退後ロス五輪の強化委員長や代表監督などを歴任していたが、1984年に強化部長を退任して以降は、サッカー界と縁が切れたと思っていたのだが、残りの人生でサッカーに夢を託す決心をし、8月1日付でJSL総務主事としてサッカー界に復帰する形となった。このことを川淵は自ら「人生の転機」と振り返っている。
総務主事就任後早速設置した第2次活性化委員会で、「1992年からプロチームによるスペシャル・リーグ(※2)をスタートさせる」という結論に至る。
サッカーが企業スポーツとして行われることが常識だったこの時代、プロ化に支持を集めることは難題だった。川淵は、JSL評議会(※3)で議論をしていては話が進まないと判断し、議論の場をJSLから日本サッカー協会に切り替える作業を行った。そして、協会内に「プロリーグ検討委員会」を設置することに成功。このことにより、プロ化が協会で正式に扱われる案件となった。
この後、プロリーグへの参加条件を精査し、実際にチームを募る作業に移る。厳しい参加条件を提示したにも関わらず、予想をはるかに上回る20チームが参加に手を挙げた。
1990年8月の第1回プロリーグ検討委員会でプロ対策本部の設置を決定。参加団体の選定がはじまった。1991年2月14日には、参加チームを10チームとすることを決定。3月1日にはプロリーグ設立準備室を開設し、川淵は室長に就任した。参加10チームの選出後は、各チームとプロ化に向けての条件について細かい話し合いを行った。これがまた身を削る思いの大変な作業だった。川淵が特にこだわったのがチーム名の呼び名だった。
「企業名を入れず、地域名+愛称に統一してほしい。」
この申し出にはやはり反発も多くあったが、法人名とクラブ名に続く第3の名前として「呼称」という概念を持ち出し、呼称=地域名+愛称とすることで落ち着いた。
またこの時、リーグの中身を決める作業も同時に行っていた。
規約作りの際には、FIFAのルールを取り寄せ、中身を吟味。さらにヨーロッパのサッカー先進国の規約とFIFAのルールとの兼ね合いなどを調べた。特に、ドイツ・ブンデスリーガの規約は、ヨーロッパで最も新しいプロリーグということもあり、膨大なページの規約を常に持ち歩き、大いに参考にした。さらにプロ野球やアメリカの大リーグ、NFLなどあらゆる規定を読み、ビジネスモデルを勉強し、取捨選択を繰り返し、Jリーグのイメージを膨らませていった。組織の在り方、名称、少数精鋭の理事の設置、試合の形式から選手の年棒や移籍に関するルール、商品化権や放送権に至るまで、細かいところにまで自ら気を配り、検討し続けた。
ミズノに全チーム分の製作を一貫して任せたユニフォームは1992年5月26日にお披露目され、その様子が翌日の一般紙の一面をカラーで飾った。これはJリーグへの世間の期待を高める大ニュースとなった。
こうして休む暇なく準備を進め、迎えた1993年5月15日。
川淵は、開幕試合をヴェルディvsマリノスの1試合に絞り、世間の注目を一点に集める作戦をたてた。さらにホームゲームの権利をJリーグとして買い取り、中継はNHKとすることで全国同じ時間に視聴できるようにした。プレミアム価格のつきそうなチケットではあったが、入場そのものの値段を釣り上げるようなことはしなかった。開幕戦のチケットは、個々の名前入りのものでコストもかけて作られた。後々まで語り継いで欲しいとの願いからのことである。また、落選者にも手紙を送る心遣いをした。この日をお金儲けのためではなく、日本サッカーを応援し続けてきてくれた人に一人でも喜んでもらえるような、心に残る日にしたいという一心で準備を進めたのだった。
川淵の開会宣言で華々しく幕を開けたJリーグ。
こうして日本に空前のJリーグブームが訪れたのである。
※1 JSL | : | 日本サッカーリーグ。1965年から1992年、日本初のアマチュアを対象にした全国規模のリーグとして存在した。日本サッカーの父と称されるドイツ人コーチ、デッドマール・クラマー氏の、「日本サッカーの強化のためにはリーグ戦形式にすべきだ」という提言を受け入れる形で創設された。現在のJリーグの前身にあたる。 |
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※2 スペシャルリーグ | : | 当時企業スポーツでは「プロ」という言葉への抵抗が強く、イメージを意識して「プロリーグ」ではなく「スペシャルリーグ」と称した。 |
※3 JSL評議会 | : | JSLの最高議決機関。主に加盟チームが自ら選出した評議員で構成されていた。親会社で立場のある取締役クラスの人が選出されることが多く、会社の意向を尊重する傾向があった。 |
企業スポーツから市民スポーツへの脱皮
川淵は、プロリーグ設立にあたり、一切妥協を許さなかった。
その場逃れの道を選び、目の前の問題から目をそらすことをせず、常に未来に思い描いた永続的なリーグを実現するために、あらゆる問題に立ち向かい続けた。
川淵の細かいこだわりは、「言葉選び」からも見てとれる。
理事長ではなく「チェアマン」。
フランチャイズではなく、「ホームタウン」。
ファンではなく、「サポーター」。
さらに「ホーム&アウェー」というヨーロッパで使用されていたことばも世に送り出した。
リーグの名称も、世界に通用するネーミングとして「Jリーグ」を採用した。
今ではすっかり当たり前に使用されている言葉ばかりであるが、川淵の細かい気配り、こだわりがあったからこそ、浸透したのである。
こだわりの原点
初めて見るサッカーの技術フィルム。
10歳たらずの子どもが大人に混じってサッカーをする光景。
これまで見たことのなかった身体障害者のスポーツ。
毎日が新鮮で、衝撃の連続だった。
川淵は青春時代に本物の「地域に根ざしたスポーツクラブ」を体験し、その素晴らしさを知った。
遠征から戻った直後にリーグ戦が開幕。
一進一退の戦いが繰り広げられ4校同率優勝という非常に珍しい結果となり、優勝決定トーナメントが行われた。熱戦の末、大一番で中央をくだし優勝することができた。
もはや優勝は絶望という中、OBをはじめ多くの方々の声援を受け、苦しみながらも諦めない気持ちをもち続けた結果が勝利を呼び込んだのである。東伏見に戻ってからの祝勝会は大いに盛り上がった。そして、これこそが早稲田イズム、地域に愛されるクラブの姿だと強く感じたという。
そしてこの経験こそが50年後の「地域密着」を理念としたJリーグ創造、そしてJリーグ百年構想にまでつながっていくのである。
こころのプロジェクト ― 日本の未来を担う子どもたちへ ―
現在、日本ではJリーグが定着し、ワールドカップでもベスト16進出という結果を二度も残した。サッカーの普及に手ごたえを感じた川淵は、次の未来へ動き出した。それは子どもたちの育成だ。
川淵は、日本サッカーの未来のために「キッズプログラム」というプロジェクトを始動した。「キッズプログラム」の目的は、多くの子どもたちにスポーツの楽しさを知ってもらい、その中から優秀な才能を持った子どもを世界で通用する選手に育成することだ。さらにスポーツを通して子どもたちに自己責任、協調性、思いやりなどの人間として重要になる部分も育てる狙いがある。日本にサッカーを根付かせた男は、次に日本サッカーの強化に乗り出したのである。
「キッズプログラム」の一つにJFAアカデミーがある。JFAアカデミーとは、中学から高校の6年間で日本代表、日本サッカー全体を牽引するエリートを全寮制で育成する機関である。JFAの英知を注ぎ込み、サッカーの指導はもちろん、英会話、リーダー教育、地域でのボランティア活動なども行われる。アカデミーが指すエリートとは、先頭に立って社会に貢献する義務を負うリーダーのことである。一部のレベルを飛躍的に上げること(プルアップ)は全体のレベルアップにも繋がり、結果的に日本サッカーの底上げ(ボトムアップ)になる。しかし、アカデミーを卒業してもJリーガー、ましてや日本代表になれる選手は限られている。川淵は、アカデミーをただのサッカー選手育成機関にはしたくなかった。人として成長し、社会に貢献できる人間になってくれることが川淵の願いだ。
サッカーを教える以外にも何か子どもたちの未来に貢献できないか、子どもたちのいじめ問題や自殺問題に対して、スポーツができる働きかけがあるのではないか。そう考えた川淵がたどり着いたのが、アスリートを生きた教本にすることだった。それが「夢先生」プロジェクトだ。トップレベルの選手、元選手に一日先生となってもらい、「夢をもつことの大切さ」や「仲間と協力することの大切さ」などについて全国の小学校で授業を行う。この取り組みは、2007年にスタートし、現在「夢先生」の数は総勢623人にも上る。この623人の先生の実際に体験した成功と挫折、そして再起を盛り込んだ授業は、子どもたち一人ひとりの心に深く刻まれる。
10年後、20年後にあの時の授業があったから今の自分がいると感じてくれる生徒が一人でも現れた時、初めてこの「夢先生」が成功したといえると川淵は考えている。その時まで川淵は子どもたちに夢を与え続けていくだろう。日本サッカーの未来を見据えながら。