驚きと苦悩、腹をくくった緊急事態 ─ 岡田 武史(フランス・1997−98年) ─
1997年10月4日、この日は岡田武史にとって生涯忘れることのない日であろう。W杯フランス大会最終予選、カザフスタンとのアウェイ戦が引き分けに終わった直後、日本サッカー協会は加茂周監督を更迭し、新米も新米、41歳でまだ監督経験のない岡田武史コーチを昇格させたのだ。1週間後に次の試合を控え、アウェイの地での連戦、敗ければフランスへの道はほぼ途絶えるという崖っぷちの状況で、岡田は1試合限定で指揮を執ることを決意した。
続くUAE戦も引き分けに終わり、重苦しい空気が会場を包む帰国後の記者会見で、岡田は続投を表明。そして、あの歴史に残る第3代表決定戦─ジョホールバルの歓喜─を経て、日本代表を初めてのワールドカップへと導くのである。絶望的な状況から駆け上った世界ではあったが、自身も、日本サッカー界も未知の領域、その苦悩は計り知れないものだった。
もぎ取ったフランスへの切符、期待とともに批判も大きく膨らんだ
1997年11月16日、ジョホールバルで迎えた歓喜のあと、岡田は「岡ちゃん」の愛称とともに国民的な人気者になっていく。ファンならずとも強豪国との対戦に心を躍らせ、熱にうかされたようなうねりが日本代表に押し寄せていった。とはいえ、出場はもとよりその準備も初めての体験。手探りの中での選考や戦術は大きな論議を呼び、一つひとつの選択が批判の対象になった。
1998年の国際試合、ダイナスティカップ・日韓共同開催記念試合・キリンカップを1勝2分2敗と負け越し、本番直前のスイスキャンプでもユーゴスラビアに敗戦を喫すると、岡田の経験値の乏しさを疑問視する声は一層高くなっていった。さらに23人のメンバーから、これまでの主力であり予選突破の功労者である三浦知良(カズ)と北澤を外す決断をすると、国内からは大きな反響が巻き起こり、サッカー人気に影を落としかねない状況が広がっていった。
しかし、どんな批判を受けても、闘うのは選手と自分たちだと心に決め、若いメンバーとパスワークを主体としたサッカーをひっさげて、岡田は初戦の地トゥールーズへと向かっていくのである。
世界の壁を痛感させられたフランス大会
初戦の相手は南米の強豪アルゼンチン。ワールドクラスの選手たちにしっかりと食らいつき、互角の戦いをしていたが、一瞬のスキを突かれバティストゥータに得点を許すと、攻撃の形を作らせてもらえないまま終了。記念すべきワールドカップは0-1と苦いスタートとなった。
2戦目のクロアチアも日本と同じ初出場だが、旧ユーゴスラビア代表選手が居並ぶ手強い相手だ。ここでも粘り強く戦い、いくつものチャンスを生み出すがゴールは奪えず、逆にミスを突かれてシュケルに決められ2戦連続無得点のまま敗戦となった。
最終戦は、開幕前から「あわよくば」の期待が寄せられていたジャマイカ戦。しかし、相手のペースにはまり、カウンターから2失点。後半、中山雅史が意地の1点を返すも及ばず。初のワールドカップは3戦全敗に終わった。
後に岡田はこの大会を「ゴールへ向かう迫力が不足していた」と振り返っている。
未経験のままワールドカップで日本代表を率いる初の監督となった岡田、その後Jクラブを何度も優勝に導く名将となっていくが、このときの経験が、指導者としての血肉になっていることは想像に難くない。
ここで世界を相手に結果を残せなかった反省が、12年の時を経て南アフリカ大会で開花、再び日本国民を熱狂へといざなうのである。
(敬称略)