世界への道は長く遠く ─ ジョホールバルの歓喜までの軌跡 ─
鈴木重義(故人・大正15年卒/1930年・1936年─ベルリンオリンピック)
ア式蹴球部の創設メンバーの一人である鈴木重義が、初めて日本代表監督に就任したのは1930年。第9回極東大会で中国と引き分けタイトルを分け合っている。ちなみに、第1回FIFAワールドカップ、ウルグアイ大会が開催されたのもこの年の7月である。
鈴木が次に世界の舞台で采配を振るのは、1936年ベルリン五輪でのこと。早稲田主体の連合チームで臨み、強豪スウェーデンを相手に3-2で勝利。その大逆転劇は「ベルリンの奇跡」として語り継がれている。
工藤孝一(故人・昭和8年卒/1942年)
コーチとして参加したベルリン五輪の後代表監督に就任、東亜競技大会などを率いた。2度のア式蹴球部監督時代に指導した選手は、ベルリン五輪、メキシコ五輪、それぞれの大会において中核として活躍している。
高橋英辰(故人・昭和16年卒/1957年・1960-62年)
ロクさんの愛称で親しまれる。1960年の欧州遠征でコーチのデッドマール・クラマーとともに、東京オリンピックに向けた強化に励む。代表監督就任前の1955年は、ア式蹴球部監督として関東大学リーグ2連覇、大学日本一を達成している。
川本泰三(故人・昭和12年卒/1958年)
ベルリン五輪のスウェーデン戦で日本人初得点を挙げ、「ベルリンの奇跡」のきっかけとなった。日本代表として初のワールドカップ予選(スイス大会)に40歳で出場。1958年、東京で開催されたアジア大会で2試合だけ代表監督として指揮を執っている。
川淵三郎(昭和36年卒/1980-81年)
前監督渡辺正の病気退任の後を受けて、強化部長との兼任で就任。W杯スペイン大会予選で25歳以下の選手を中心にチームを編成、思い切った若返りを図る。若手指導者の育成にも力を入れるなどGM的な役割をこなし、後にJリーグ初代チェアマン、日本サッカー協会会長(キャプテン)を務める。
森孝慈(故人・昭和42年卒/1981-85年)
川淵監督時代の1980年に代表コーチに就任、翌81年より正式に指揮を執る。1982年ニューデリーで行われたアジア大会で、国外の大会で初めて韓国を撃破したが、ロス五輪予選で惨敗、W杯メキシコ大会予選もあと一歩のところで韓国に敗れ本大会出場を果たせなかった。森はこの闘いを通じて「プロ化の必要性」を痛感、各方面へ働きかけた。代表監督のプロ契約が始まるのは森の退任から3年後のことである。(1988年横山健三が日本初のプロ監督)
このあと、1992年に日本サッカーは初めての外国人監督ハンス・オフトを招聘。ピッチ内外での規律や基本的な戦術など、大きな変貌・成長を遂げていく。1993年にはJリーグがスタート、サッカー人気の高まりとともに、プレーのレベルもアップ。アンダー世代の躍進などもあって、世界への道はすぐそこまでのように感じられた。しかし、ドーハで行われたW杯アメリカ大会最終予選、まさかのロスタイムの失点(ドーハの悲劇)で、またしても世界への道は閉ざされてしまう。
1996年「第17回FIFAワールドカップ(2002年)」が日韓共同開催となることが決定されるが、一度も本大会へ行かないまま開催国枠での出場かという一抹の不安を抱いたまま、1997年フランス大会の予選は始まった。
ホーム・アンド・アウェー方式となった最終予選の最中に監督が更迭されるという極限状況の中、岡田武史が緊急登板、ジョホールバルの歓喜を経て、フランス大会に駒を進めたのである。
(敬称略)