🌟飯原健斗(イイハラ ケント)
⚽️横浜FCジュニアユース → 國学院久我山高等学校
「ア式の事嫌いだよな」
「慶應寄りの早稲田だよな」
冗談交じりにこんな言葉を周囲の人によくかけられた。
当時はまるでアンチア式のようで、とんだ偏見を持たれたと思っていた。
しかし今考えれば確かに最初はア式の事が嫌いだった。その気持ちが周囲の部員にも伝わったのだろう。
ルールに縛られるているようで。
正しい人間とは何かを決めつけられているようで。
まるで監獄にいるかのような気分でどうも好きになれなかった。
また高校サッカーと大学サッカーのスタイルの違いを受け入れられなかったのも1つの理由だ。私は高校3年間「美しく勝て」をスローガンにパスサッカーが伝統の国学院久我山高校でプレーした。一方でア式のサッカースタイルは久我山とは正反対とも言えるサッカーでまさに「泥臭く勝て」を体現するチームで、その大きすぎるギャップに戸惑いと同時に、自分の中で変化を恐れ、殻を破れない弱さがあった。
きっと高校サッカーから大学サッカーへと進み、私と同じような経験をする人は少なくない気がする。
そのような学生、そして過去の自分に
「時間の無駄だ」
と伝えたい。
「郷に入っては郷に従え」
ア式に入りこの言葉の重要性を身に染みて感じた。
早稲田では早稲田としてやらなければいけない基準があり、先輩方が作り上げて来た伝統や文化がある。そこに入るという事はその文化や伝統を継承し、発展させていく義務がある。そしてその中で自分の色を出していく事が最も大切な事。
この極めて単純なことにもう少し早く気が付けていればまた違うア式での生活が待っていたという後悔も少なからずある。
しかし今は久我山と早稲田の正反対のスタイルの中で、自らを変化させ3年で大きな目標であった関東リーグ出場を果たせた事は私の中で1つの大きな財産であると前向きに捉えている。
この変化のきっかけとなった1つの要因は「ア式にどんな想いを持って入って来たか」
を整理した事だ。
大学で必ずしも体育会に入る必要はない。サッカーを続けるにしてもサークル、社会人サッカーと多くの選択肢がある。それでも体育会に入りたいと思った理由は2つ。1つは高校3年の選手権の全国大会で私自身がPKを外しチームを敗退に追い込んでしまった悔しさをバネに大学でもう一度活躍し、これまで支えて来てくれた方々にプレーで恩返ししたいと思ったから。2つ目は同じ早稲田大学出身で6つ上の兄の想いを背負ってア式でサッカーをしたいと思ったから。兄は高校時、早大学院でキャプテンを務め大学ではア式でサッカーをする事が大きな目標だった。しかし当時はセレクションが厳しく1学年の人数も非常に少なかった為ア式に入部する事が出来なかった。結局体育会に拘った兄はラクロス部で4年間を過ごしたが、ア式に入る事が出来なかった悔しさを誰よりも理解できた。だからこそ私がその想いを背負ってア式に入りたいと思った。
これらの2つが私の中で大きな原動力になり、自分の中で変化を起こせたのである。
そして変化のきっかけとなったもう1つの大きな要因は一生付き合いたいと思える最高の同期に出会えた事だ。
心の底からこの代で良かったと思える仲間
であり、一緒に試合に出て闘いたいと素直に思った。
その為にも自身を変えなくてはと思えたし、私の心に変化をもたらしてくれた同期には本当に感謝しかない。
先日行われた最後の早慶戦でも同期との素晴らしい思い出を作る事が出来た。
大勢の後輩達とウルトラスの方々の応援に背中を押されながら、同期と同じピッチに立ちプレーできた事、何より勝利を飾り皆で紺碧の空を歌えた事が嬉しく、幸せな時間だった。
そして改めてア式をまだ引退したくないと思った。
あと1年と言われたら少し辛いが、残り約1ヶ月となるとまだまだサッカーを皆としていたいと強く思う。
とは言え嫌でも時間は流れていく。
16年間続けて来たサッカーに終止符を打つ日が迫っている。
残りの1日1日を大切に過ごし、家族をはじめとするこれまで支えてくださった方々にプレーで恩返しをしたい。また4年間お世話になり、成長させてくれたア式に何を残すか。
それを常に考え、私の姿を見て後輩達が何かを感じてくれるように自分らしく、「決して驕らず、決して腐らず」をモットーに行動していく。
最後に、4年間過ごして今感じる素直な気持ちはこうだ。
「ア式が好き」
「同期が好き」
「慶應寄り早稲田?」
「いや、慶應より早稲田」
必ずインカレで優勝し、もう一度皆で最高の瞬間を共にしよう。