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「主体性」2年・小野寺拓海

 

🌟小野寺拓海(オノデラ タクミ)
⚽️ヴェルディS.S岩手 → 専修大学北上高等学校

 


 

「主体性」

 

大学サッカーと高校までのサッカーの大きな違いとして、または大学サッカーの魅力の一つとしてあげられる「主体性」。これは「自分の判断や意志をもとに、自らが責任を持って行動すること」を指します。与えられた環境に対してどれだけ全力に取り組めるかを求められていた高校とは打って変わり、大学ではその環境をもデザインしなければなりません。

私たちア式蹴球部も学生主体を掲げています。チームの活動方針の決定や試合の分析、広報活動や遠征の手配に至るまで、私たち学生が中心となってサッカーをするための環境を整えています。そんな大学と高校というカテゴリーの大きな違いとしてあげられる「主体性」ですが、私個人に置きかえて考えてみると、この大別に当てはまらないことに気がつきました。

 

高校時代私はキャプテンを務めていました。自分でいうのもなんですが、キャプテンらしいキャプテンであったと自負しています。練習中の雰囲気をコントロールし、試合中声を張り上げることは当たり前、ミーティングでは仲間に想いを伝え、ときには怒鳴ることさえありました。チームを勝たせるため、目標を達成するためなら嫌われることもいとわない、まさに「主体的」そのものでした。しかし高校卒業からもうすぐ2年を迎えようとしている今の私に、あの頃の自分は見る影もありません。プレー中はほとんど喋らず、味方の指示を聞いて動いているだけ。緩い練習だと感じていながら、それを正そうというアクションを起こせない自分。周りに流されっぱなしの自分。常に受け身の自分。

高校生の時の自分が今の自分を見たとしたら、殴りかかっているでしょう。それくらい熱い気持ちを持った高校生でした。今の私とは比べものにならないくらい、あの頃の私は「主体的」だったと思います。

 

もちろん「このままではダメだ」「この現状を変えなければ」と何度も何度も考えました。

しかし変わることのできない自分。

なぜか。

それはサッカーでの良し悪しに引け目を感じていることに他なりません。言いかえるならば、劣等感というやつでしょうか。
私は全国的には無名の高校でサッカーをしていましたが、地元ではそれなりの実力があると自己評価していました。目標であった全国大会出場は県の決勝で敗れ、あと一歩及ばなかったものの、早稲田でも十分やれるんじゃないかという自信を掴んでいました。しかしこの組織に来た途端、あっという間に私の自信は崩れ去りました。全国大会常連の強豪校やJユース出身で、おまけに代表歴もひっさげているような連中が余るほどいました。みなギラギラした目つきでエゴを全面に押し出し、自分という存在を必死に表現していたのです。

 

「ヤバイとこに来た。」率直にそう感じました。

一匹のウサギが飢えているライオンの群れに遭遇してしまったのです。そんな環境の中に身を置くことになったウサギはライオンに立ち向かうことを選択せず、身を隠し姿を消すことを選びました。今の自分はまさにそんなイメージです。
自分より上手く実力や実績がある仲間に怖気づいて、彼らに対するアクションをためらう自分がいます。彼らの行動や意見に流されっぱなしの、取るに足らない、ダサい自分がいるのです。

 

話を戻しますが「主体的」に仲間を巻き込んだりチームを引っ張ったりすることには、大きな責任が伴います。意見を述べ、言葉を発したからには、自らが模範となり率先して行動しなければなりません。自分よりも能力が高い人間に対して負う、より大きな責任から逃げ続けてきました。彼らに責任を負うということは、彼らを納得させるだけの振る舞いそしてプレーを表現する必要があります。
他方、言われた通りに動いているだけであれば、責任を放棄することができ、楽をすることができます。受け身の姿勢を変えようとせず、楽な道を選び続けてきた結果、公式戦のピッチに一度たりとも立てていないという現状を生み出しました。

 

関東リーグ第14節の専修大学戦、試合終了のホイッスルが鳴った瞬間、早稲田の選手はピッチに倒れこみました。中には涙する選手もいました。それは後期の開幕3戦目でようやく勝利したことに対する喜びの涙であったかもしれません。しかし私には、ア式蹴球部のイレブンとして背負う大きな重圧や不安に打ち勝ち、安堵する涙のようにも思えました。勝利という目標に対して「主体的」に取り組み、その責任をピッチで体現したからこそ生まれた彼らの「涙」が私の心を強く打ちました。

そして私は思いました。
こうやって人は強くなるのかと。責任に立ち向かい続けるからこそ、成長につながるのだと。

常に受け身の自分とピッチで輝く選手たち。その差は実力や実績ではありません。「主体性」の違いに他ならないのです。

 

この日記を書くにあたり、どういった内容がふさわしいか、何を書くべきなのかを考え悩みました。結局私自身の弱さを綴ることに終始してしまい、読んでくださっている方にとっては退屈な内容となってしまったかもしれません。それでもこの自分本位な内容にこだわったのは、皆さんに読んでいただくことで、自分自身に責任を課したいと思ったからです。

もう逃げることはできません。
変わるしかありません。

私がチームを引っ張るのです。