🌟笠原駿之介(カサハラ シュンノスケ)
⚽️クマガヤSC → 早稲田大学本庄高等学院
2017年7月15日。
あの日、私は確かにそこに居た。
脚光を浴びるあの場所に。
濃密で、一瞬にして過ぎ去る
“早稲田”を最も感じる90分間に。
「大学で何するの?“あしき”受けるの?」
「いやぁどうだろう、わかんない。引退してから動いてないし笑」
「いや理由それかよ笑。受けてほしいけどな、俺は。」
「うーん、考えてみるわ」
高3の12月のこと。部活動引退後はさる事ながら、選手権予選期間ですら同時並行で追われていた20000字を超える卒業論文の提出を控えたとある日の会話である。付属校というメリットを蔑ろにし、さらに自分のビジョンをさながら他人事化までして。曖昧でどこか芯のない、心の筋力が気ままな状態なのはまさにこの頃から顕著に現れていたようである。
無論、こんな状態で練習生となった暁には…。自分の事ですらモチベート出来ず、何を目指しているのか、何で入ったのか。皆目見当がつかないのは当然のことだった。おまけに大学という環境の変化と慣れない寮生活も相まって、暫くは何にも手がつかなかった。下宿先すら計画的に決めずに出てきた両親と弟への後ろめたさも同時に。
でも、ふと、とある日。深呼吸して考える。こんなチャンス滅多にないだろう、と。泥と砂利で育った18歳の目の前に広がる綺麗な人工芝、全国屈指のレベルを誇る選手達、多様性溢れるコミュニティの数々、そして歴史と伝統。早稲田大学ア式蹴球部でサッカーをする価値がこれでもかと見つかる。これを逃してなるものか。また、何より、高校時代から、もっと言うとサッカーを始めた頃からバカみたいに高い学費やら遠征費やらを払ってくれる、そして生活を支えて応援してくれる家族がいる。入部時の挨拶、上級生とスタッフを前に、「支えてくれる家族と私を見て大きくなる弟達のためにも」という鮮明な記憶を忘れる事はないだろう。大学入学後の小さな転機である。
その日は突然やって来た。2012年も暮れ。いや、年は明けていたかもしれない。中3。高校進学先に悩んでいた私が暇を持て余して付けたテレビの先には臙脂色の戦士達が輝いていた。早大本庄の選択肢があったのも尚もって、何気なく試合を見ながらぼんやりと、何の根拠もなく、いずれはここでプレーする気が、と感じていた。そのせいか、早大本庄の入試の小論文および面接でア式蹴球部やプロに内定した富山貴光選手にまで触れていたようである。勿論、聞かれはしなかったが。ただ大学サッカーの話題に転じた際には何の不安もなくやりとりができた。一連の出来事もある意味転機である。
これらの気持ちはいつの間にか薄れゆく。でも人生は不思議なもので本当に転機の連続でしかない。
高2になるタイミングでサッカー部の顧問が変わった。ランメニューも現役部員同様それ以上の記録でこなし、トレーニング前後のケアも欠かさない、本当に尊敬できるア式のOBの先生である。サッカーに対する姿勢、進学校の部活という一言で片付けない熱量、日常とのリンク…。先生の存在が私をア式へ導いたと言っても過言にはならない。事実、先生の赴任後はア式と練習試合もさせてもらい肌で大学レベルを感じることができた。ボコボコにやられて後日Cチームだと聞かされたのは良い思い出である。
これら、先生との出逢いもまた転機であり、体育会というある意味挑戦を応援してくれた先生には感謝してもしきれない。
高校入学の段階から「皆さんは早稲田大学の一員です。」という考え方を刷り込まれて来た。校歌は勿論『都の西北』。何度アンコールしたか不明な応援歌、『紺碧の空』。その他、大学の図書館ですら利用可能だった。言わずもがな何処に行っても何をしても早稲田の看板を背負うという責任と自覚を感じざるを得なかったのである。まあ、悪い気はしなかったが。そんな私の中で揺れ動いていたア式蹴球部への覚悟を決めたのは、これらと全く無関係な、小・中過ごしたチームの初蹴りに参加した時だった。
県内では名の知れたチーム。その初蹴りともなればプロや代表で活躍するOBの選手達も集う。現役含め代ごとに分かれて行うミニゲームでは、そのクオリティはさながらフットサルの大会のよう。その日、プロ内定や関東リーグ1部校進学予定の同期達に感化され楽しさの中に自分の熱を再確認した。
中学時代はスタメン。高円宮杯や国際大会など様々な経験をさせてもらった。あと1つ勝てばバルサと戦えた。そんな私だが、スカウトの目に留まるほどではない。私以外の10人はJユースか県外の選手権で聞く高校へ。それが必ずしも成功だとは思わなかったし、ポジションは違うのに劣等感は否めなかった。中学時代の俺がもっと巧ければ、強ければ。ガンバ倒せたかもとか、バルサと戦えたかもとか考えたり考えなかったり。二種登録、トップ昇格、年代別代表、選手権。ネットで、テレビで同期の活躍を目にする度、誰よりも自慢したくて誰よりもライバル視する自分がいた。いつか脚光を、と。そんな彼らに思いもよらず再び背中を押してもらった。また幸い、大学のリーグで会える。闘える。その要因は大きかった。
思い返せば、中3の進路選択の段階でア式蹴球部への扉は開かれていた。心の中で逆算していたのだろう。ただ、色々な転機が重なってここまで辿り着いた。大学で何がしたいとか拘りとか正直自分でもわからなかった。でも多分、始めてもう15年にもなる好きで続けたサッカーだけはやっぱり何かしっくりきてる。両親含め家族、恩師、友人らの支えには頭が上がらない。このア式蹴球部という存在を、経験を、人生においての好転機とすべくもう一度邁進する。